ソビエト連邦や中華人民共和国を含む社会主義陣営の共産党に一般的な見解としては、かつてのホルティ・ミクローシュ政権のような軍事独裁的な政府と封建的な資本主義経済を復活させようとした聖職者やファシストによる試みだという見解が公認されている[8]。
新左翼の一部やアナーキストの立場からは、ハンガリー労働者評議会を基にした新しい構造の社会を作ろうとした自由主義的な社会主義者によるアナーキズム的な革命という見方もある。
この他、スターリン社会主義、ソ連型社会主義による社会主義体制を否定し、新たな社会主義革命を目指す動きとみなすものがある。
社会民主主義的な立場や共産主義でも自主管理的な志向を持ったり、民主主義政体を維持しようとする傾向が強い立場(=ユーロコミュニズム)からは、社会民主主義国家であるユーゴスラビアやスウェーデンのように改革しようとした社会主義者による民主的な革命であったという見解がある[9]。
反共・保守・自由主義の立場からは、資本主義経済を目指そうとした民族主義者による民主的な革命と見ている。
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当時の独裁体制を打破し、自由主義、民主主義の体制を確立するための革命とするものである。
ハンガリー事件についての日本の思想的状況については、小島亮の『ハンガリー事件と日本』に詳しい。そこには日本の政治家や思想家のハンガリー事件に関する評価があり、保守・右翼・反共の立場からは佐々淳行が自分はハンガリーの警察が民衆を弾圧したやり方で弾圧するようなやり方を取りたくないという論を(実際に佐々がそのようなスタンスで警察官僚として臨んでいたのかという議論は別にして)展開しているほか、西尾末廣、芦田均らが反共、民社の立場から、ハンガリー事件におけるソ連の行動について、スターリニズムのソ連と今のソ連が異なるというのが事実ではないと批判し、ハンガリー難民の救済を名目に、日本ハンガリー救援会を組織した。
しかし、これらの活動や思想は、真にハンガリーの民主主義やハンガリーの政治難民を救うことを目的としているというよりも反共主義的な立場が強調されていること、またハンガリー難民の救済などもソ連を刺激しないという政治的理由から次第に沈静化したことなどもあって、進歩・左翼の立場の人たちの大半は冷たい態度を取った。大内兵衛が雑誌『世界』における「歴史のなかで」(1957年4月号)におけるハンガリー事件でのソ連介入止む無しの発言の背景にあったのは社会主義国の総本山とも言えるソ連への畏敬の念と同時に保守・右翼の反共に対する反発というのが混ざった形で表れており、中野重治もハンガリー救援会に対する皮肉めいた文章を残している。これは社会主義者だけに限らず、進歩的知識人と呼ばれた人にも見られ、野上弥生子のハンガリー救援会に対する冷たい態度や(『中央公論』1957年2月号「地球儀とハンガリア」)にもあり、上原専禄も先に引用した「歴史のなかで」において神経質な国民との差別めいた発言を述べている。
これら進歩・左翼の知識人に見られるハンガリーへの冷淡さは社会主義に対するシンパシーであると同時にハンガリー自体に対する差別意識もあったとされる。大内は「歴史のなかで」においてハンガリーを百姓国と蔑視めいた言葉遣いをしており、山川均も当初はハンガリー事件に対して同情的なスタンスであったものの(『世界』1957年2月号「ハンガリア動乱をめぐって」など)、「歴史のなかで」では(農民主体の国だから)労働者はそれほどいない(だから革命などありようがない)という物言いをしており、社会主義シンパシーへの進歩性と同時にそれにそぐわない国であるハンガリーは遅れた国という独善的な偏見とみなされてもやむをえない態度を示した。
その一方、新左翼(小島亮は「ニューレフト」と称している)は日本社会党や日本共産党が政治的理由からハンガリー事件について反革命であるとのスタンスを取ったこと[11]に失望し、黒田寛一や大池文雄はハンガリー事件におけるソ連の軍事介入を批判するとと同時に日本共産党における宮本顕治主導の共産党体制をスターリニズムに基いていると批判した。彼らのスタンスではハンガリーの人民民主主義と称されるものは人民の基盤に基いていないソ連の都合に合わせた体制である[12]とし、ソ連の軍事介入を非難しハンガリー事件を革命と評している。
ハンガリー事件の思想をめぐる日本における難しさは、ハンガリー事件が政治的、イデオロギー的な理由から左右両翼の政治闘争と化してしまったことも一因とされる。ハンガリー事件をハンガリー動乱と呼ぶのか、ハンガリー事件と呼ぶのか、はたまたハンガリー革命と称するのかはこれらの動きと密接に関係がある。ただし、右派が動乱という言葉を使っているケースもあれば、左派が革命、事件といった言葉を使っているケースもあり必ずしも定義づけられてはいない。